「インスタ映え」の為に多めに注文した料理を食べ残す行為は、非難されるべきか否か

はじめに

以下の記事を読んだ。

news.livedoor.com

最初に断っておくと、私自身は食べ物を捨てる行為が大嫌いであるし、特に(集団で居酒屋に行く等ではなく、一人もしくは家族で)外食で自ら注文した料理を食べ残すことなど「絶対に無い」というレベルである。「思ったより多くて食べ切れなかった」という経験さえ無い。何故なら初めてのお店ではそうならないように少なめに注文する為である。子供にもそのように教えている。

しかしながら、そのような振る舞いを「善」とするのは単に私の価値観に過ぎない。すなわち、色んな価値観の人たちが居る中で、例えば「初めて行ったお店で、美味しそうに思えたセット料理を頼むと、思ったより量が多くて、残してしまう」という経験が普通にある人に対して「コイツは悪だ」などと非難する気持ちはあまり無い。

そのような観点から『「インスタ映え」の為に多めに注文した料理を食べ残す行為』に関して以下に述べる。

「罪に問う」に絶句する

冒頭で紹介した記事の中に、『「インスタ映え」の為に多めに注文した料理を食べ残す行為』を行った者に対して、

ネット上では「罪に問うべきだ」「罰金は取れないのか」との声も目立つ。

とあるのだが、もしこの「罪」というのが「違法行為」という意味で、「罰金」というのが「罰金刑」という意味なのであれば、そのような声が上がることのほうが私にとっては驚きである。

自分が気に入らないとか、自分が考えるモラルに著しく反しているように感じるとか、そういった理由で、何の法律にどのように抵触している等は何も考えずに、誰かを法的に罰せないのかと、そのような考えに至る人が居るという点に驚く訳である。

誰かを法的に罪に問うというようなことは、厳格に法律に則って相当に慎重に行われなければならないし、社会がそのようになっているということが、我々一般国民の「最大限の自由な生活」を担保しているはずである。

インスタとか食べ物などに関わらず、「多くの人々の反感を買う行為をした」という理由で、法的根拠も無いのに逮捕され、犯罪者にされるような社会は、極めて恐ろしいと私は思うのである。

その他の「食べ残し」と比べてどうなのか

例えば集団で行うイベント等の際に、昼食で弁当が出るとする。

「足りないよりかは余るほうが良い」という考えの下、量が多めの弁当になるので、食べ残す参加者も多いし、また「弁当の数」という観点でも諸般の事情で余りがちである。

そして、「食べ残し」とか「余った弁当」は捨てられる。

以上のような状況に遭遇した人は居ないだろうか。個人的には、実際の生活の中において、「インスタ映えの為に食べ残す人」を見かけた経験は無いが、上記のような状況には何度も遭遇している。

上記のような「食べ残し」は「仕方の無い食べ残し」なのだろうか。

参加者の個々人が手弁当を持参すれば解決する話であるし、もしくは当日に参加者の一人ひとりの意向を聞いてから調達すれば、かなり改善される話であるのだが、参加者もしくは主催者の「時間的利便性を優先する」が故に上記状況に至ることは想像に難くない。

これを「仕方ない」と考えるのか「許せない」と考えるのかは、人それぞれである。

しかし、これは「仕方ない」と考えるのに、『「インスタ映え」の為に多めに注文した料理を食べ残す行為』は「許せない」と考えるのは果たして妥当なのだろうか。

そもそも「インスタ自体の存在が嫌い」など、判断に何かのバイアスがかかっていないだろうか。

「料理した人の目の前で大量に残す人」など、日常茶飯事

私がよく行く中華料理店では、カウンターに座ると料理人が料理をしている姿が見えるのだが(従って相手からもこちらが見えている)、そのカウンター席で大量に食べ残していく人を見かけることなど日常茶飯事である。

例えば「インスタ」などとは無縁と思われる老齢の男性が、色んなものをちょっとずつ食べたいのか、食べきれる訳が無さそうなセット料理を注文して、白飯も含めて全てのおかずにちょっとずつ手をつけて、そして大量に残して帰っていく姿など、普通に見かける光景である訳だ。

そのような行為も、『「インスタ映え」の為に多めに注文した料理を食べ残す行為』も、どちらも私は「好ましからざる行為」と思っているが、後者のほうが「よりタチが悪い」とは思わない。何故なら、「(恐らく)食べきれないと分かっていながら、食べ残す前提で料理を注文して、料理をしてくれた人の前で食べ残す」という構図自体は、両者とも差が無い為である。

おわりに

「インスタ」というワードを外して考えた時、「食べ残してはいけない」「食べ物を捨ててはいけない」と強く考えている人の割合は、それほど多いのだろうか、というのが飽食の時代である現在に生きる私の率直な感想だ。

私はたまたま、その部分に関しては考え方が古風であるのかも知れないが、私だって他の事柄では周囲から「この現代人が」と嘆かれているようなことも多々あるだろう。

自らの価値観により「インスタという『遊び』の為に注文した料理を食べ残すなんて」と嘆いたり、もしくは問題提起をしたりすることは自由であるし、控えるべきとも思わないが、自分自身は全ての状況で本当に「食べ物を粗末にする」ような行為には至っていないのだろうかと同時に改めて考えることも必要であろうと思うし、またそのような風潮自体を嘆くことと、実際にそのような行為に至っている者を個別具体的に非難、攻撃することとの間には、質的に「決定的な差」があるのだと留意すべきであろうと、個人的にはそのように思っている。

「集団無視」というイジメが、他のイジメと異なる点について

はじめに

小学生、中学生、高校生くらいまでの、いわゆる「子供」の社会において、「集団無視」というイジメは、あってはならないとは思うのですが、これが大学生とか、もしくは社会人とか、いわゆる「大人」の社会においての話となると、「あってはならない」とまでは言い切れないようにも思います。

すなわち、「集団無視」というのはその他のイジメとは何か決定的に異なる点があるように思うのです。

その辺りのことを今回は記します。

「集団無視」は何罪?

殴る蹴るの暴行を加えれば「暴行罪」とか「傷害罪」、持ち物を隠したりすれば盗んでいるのに等しいと考えれば「窃盗罪」、お金を巻き上げれば「恐喝罪」など、これらは子供の社会のイジメの話であろうが、罰せられる年齢か否かに関わらず、やっている行為そのものは明らかに「犯罪」であると言えます(と思います)。

一方で「誰かを集団で無視する」という行為は、何かの罪に該当するでしょうか?無視している集団の一人ひとりに、「無視している相手が嫌いで関わりたくないので、自らの意思で無視している」と言われた時、「嫌いな相手を無視する権利」を否定する法的根拠が、どこかにあるでしょうか?

このような点が、「集団無視」というイジメは他のイジメと異なると感じる理由であると思います。

「罰すること」と「状況の解消」の違い

例えば殴る蹴るの暴行を受けていたり、持ち物が隠されて(盗まれて)いたり、お金を巻き上げられたりと言ったイジメを受けていた場合、被害を受けている側には全く責任はありませんし改めることもありません。そして、いじめられている側の子供の健全な成長を考えるならば、その状況は一刻も早く解消されるべきなのですが、同時にいじめている(罪を犯している)側の行為を一刻も早くやめさせて罰を与える必要があるという側面もあり、「加害者の不法行為を一刻も早くやめさせて、かつ罰を与えるべき」という点に関しては基本的に「被害者の保護」は関係ありません。すなわち被害者の気持ちがどうであろうと(仮に大して深刻には思いつめていなかったとしても)、それとは別に「加害者の不法行為を一刻も早くやめさせて、かつ罰を与えるべき」というのが社会における正義であるように思います。

一方で「集団無視」の場合は、そもそもそれが不法行為なのか?という点は上で述べた通りですし、また仮に無視されている側が「あんな集団と関わりたくないので、無視してくれているのは逆に有り難い」と感じている場合は「被害」ですらなく、すなわち解消する必要すら無い訳です。

従って、無視されている側が「無視されて辛い」と感じている場合は、その状況は解消されるべきですが、「集団で無視している側が一方的に悪い」と断罪することを優先するというよりかは、解消された後に無視していた側も、されていた側も出来るだけ気持ちよく時が過ごせるような解決方法を目指すべき事柄であるように思えます。

以上のような点も、「集団無視」というイジメが他のイジメと異なると感じる点であるように思います。

そして大人の社会なら…

そして大学生とか、特に会社員の「大人」の世界で、「集団無視」が起きた場合、無視された側は誰に何を訴えれば良いのか?ということになります。

業務(仕事)に影響がある場合は会社に訴えようもありますが、それを遂行する為の最低限の会話等はあり、それを超えた雑談などプライベートな部分で「あなたが嫌いだから無視している」と周囲から無視されていた場合に、誰に何を訴えれば良いのか?ということになると思うのです。

結局は「自分」を頼るしかない

今回は詳しく書きませんが、私はどれだけ「イジメは最低だ」という世の中の声が大きくなっても、子供の社会からも、大人の社会からも、イジメは絶対に無くならないと思っています。

「集団無視」というのは、大抵は集団のボスのような人が居て、そのボスが無視する相手(ターゲット)を決めて、そして無視すると決めたら周りの取り巻きが付き従っている、というような構図なのだろうと思っているのですが、そのボスにしても、取り巻きにしても、本当に下らない人間だと思います。

そんな下らない人間には関わる意義など1ミリも無いし、無視されても全く構わないし、むしろこちらから願い下げでしょう。

そして仮に周囲の全てがそのような人間であり、孤立無援になったとしても、「一人で生きて行く強さ」と言うのは人間には必ず必要です。

仮に子供時代には、そのような状況が訪れなかったり、もしくは学校や先生が解決してくれたりして過ごしたとしても、人生は長いので、大人になってどこかのタイミングで孤立無援となってしまうことが、一度や二度はあるかも知れません。そんな際に、「一人で生きて行く強さ」というのは必ず必要となります。

そんなことを改めて思いました。

「人と比べたって仕方ない」の意味

「同級生の○○は、××商事に勤めていて、年収は△△△万円あるらしい。なのにオレなんて…」って人と比べることに意味があるだろうか。

例えば自分の生活費など、必要額が△△△万円だから、それ以上は稼ぎたいと頑張ることには意味があると思うし、もしくは世の中の大卒の平均年収が△△△万円だから、最低でもその程度は稼ぎたいと頑張るとか、そういった頑張りには意味があるだろう。

しかしながら、自分で勝手に作り上げたライバル像の「○○」と比べることには、何か意味があるのだろうか。

※ ※ ※ ※ ※

「○○さん家の息子さんは、偏差値が△△の高校に行ったらしい。だからウチの息子だって」と子供に偏差値競争をさせることに、何か意味があるだろうか。

例えば親として、何か深い理由があってどこか行ってほしい大学があったり、もしくは子供本人の希望として行きたい大学があったり、そしてその大学に進学する可能性を高める為に、偏差値が△△の××高校を目指す、という頑張りなら意味があるだろう。

しかしながら、自分で勝手に作り上げたライバル像の「○○さん家の息子」と比べることには、何か意味があるのだろうか。

※ ※ ※ ※ ※

「アイツだって頑張っているから、自分だって」と言えば聞こえが良いかも知れないが、だったら「アイツ」が頑張るのをやめたら、自分も頑張らないのだろうか。

誰が頑張っていようといまいと、自分が頑張りたい事柄に対しては目一杯頑張りたいし、どうでも良い事柄に関しては全く頑張らないし、その取捨選択に流行りや風潮など無関係であるし、自分の信念を持って頑張るべきは頑張る。

そのような人生でありたいと、私は常々思っている。

「餃子の王将」は味にバラツキがある、ことの意味

はじめに

餃子の王将」ファンの私(中年男性)です。今日の昼食は、「餃子の王将」で「トーフ丼」と「ジャストサイズ餃子」を食べてきました。

餃子の王将」は味にバラツキがある

餃子の王将」は味にバラツキがある、とよく言われますが、これは事実と思います。

「お店によって違う」という面もありますが、もっと言うと「同じお店でも、日によって違う」時もあると感じています。私は週に1~2回、自宅近所の「同じお店」にずっと通っていますが、その上での感想です。

「同じ料理なのに、味の種類が全く違う」なんてことは全く無いのですが、平たく言うと「薄味の日と、濃い味の日がある」という感じです。

薄くてそのままでは食べられないとか、逆に濃すぎて食べられないとか、そんなことは全くありませんので、全くの許容の範囲なのですが、「バラツキがある」のは事実と思っています。

一品ずつ手作りなので、ばらついて当たり前

例えばファミレスでハンバーグを食べると、いつも同じ味がします。理由は当たり前で、「工場で機械で作っている為」です。それをお店で決められた火力と時間で「焼いているだけ」ですから、同じ味がするのだろうと思っています。

従って「餃子の王将」でも、例えば餃子ならいつでも同じ味がします(工場で作っているものをお店で焼いている為)。

しかし「餃子の王将」の多くの料理、例えば炒飯にしても何にしても、その多くは注文を受けてからその場で「手作り」しています。カウンター越しに、その「一から作っている姿」を見ることだって出来ます。

そんな「その場で一から手作りで作っている料理」が、毎回毎回画一的に「全く同じ味」がするほうがおかしいように思いますし、私のような者であっても「薄い濃い」と多少は感じる程度にばらつくのは、当たり前の話であると思っています。

「ここの名店」が、ほぼ無意味な訳

もしかしたらチェーン店ではなく、拘りのオーナーが一店でやっているようなお店で、「絶対に味はばらつかない」というお店もあるのかも知れません。

しかしながら、例えばそのお店が「東京のどこそこ」にあったとして、大阪に住む私には「行けない」という意味で、そのお店が存在しようとしまいと私の人生には何の関係もありません。

東京に限らず、どこにあったとしても、「食べ歩き」が趣味の人ならまた別かも知れませんが、仕事その他が忙しい合間の時間で「手軽に美味しいものを食べたい」私にとっては、「普通に行けない」という意味で、何の意味も無い訳です。

たまたま現在の自宅は徒歩圏に「餃子の王将」がありますが、仮にそのお店が無くても、クルマで15分も走れば何軒かの「餃子の王将」がありますので、私にとっては「気軽に行ける」ものとなっています。

「チェーン店なのに、味のバラツキがある」ことの意味

と言う訳で、「餃子の王将」に関してよく「チェーン店なのに、味のバラツキがある」と批判的に言われることがありますが、それは、

・通常はチェーン店の料理は工場などでの画一生産である
・手作りのお店は広域にチェーン展開しておらず、「誰でも手軽に行ける範囲」に無い

ということが当たり前の世の中で、「餃子の王将」は、

・一品ずつ手作りの料理を出すようなお店を、「誰でも手軽に行ける」感じの店舗数と価格帯で展開してくれている

という「有り難い存在」であることの裏返しなのだろうと思います。

以上、「餃子の王将」ファンの私が語ってみました。

「毎日が育児休暇」の私の息子が、「全国学力テスト」で(ほぼ)満点を取ってきた話

はじめに

先日、我が家の一人息子(小学六年生)が「全国学力テスト」の結果を持って帰ってきた。算数は満点で、国語も満点、と言いたいところだが、国語は一問だけ間違えていた(漢字の書き取りを一問間違った)。

事前の対策などは全くしていないし、塾などにも通っていない。単に日々の日常的な勉強をして過ごして上記の結果だった。

と言う訳で、「考える力」に関しては、そこそこ上手く実力が付いているのだろうな、と思った次第である。

私(中年男性)が息子に勉強などを教える際に留意している点などを以下に述べる。

「毎日が育児休暇」の私

私はフリーランスとして、自宅で仕事をしている。すなわち毎日が育児休暇みたいなものである。

と言っても、毎日仕事をしているのだが、育児に参加するからと言って「丸一日休む」必要など無いし、すなわち仕事をしながらでも、育児には参加出来るのである。

息子が一歳と少しの頃にフリーランスとなったが、それから「晩御飯は一緒に食べる」ことはずっと続けてきたし、息子が小学校に上がる少し前からは「算数、数学の勉強を見る」こともずっと続けてきた。

息子は小学三年生の時から、とある球技のクラブチームに所属していて、諸般の事情により最近は妻と息子の二人で外に練習に出掛けて、夜遅くに帰ってくる時が多いので、そういう際の夕食は(簡単なものだが)私が作ったりしている。お腹をすかして帰ってきた息子にすぐに食べてもらいたいのと、妻に少しでも楽してもらいたいのと、その両方の目的である。

仕事が相当に忙しい時でも上記の「夕食」は、長くても一時間もあれば終わるので、作るようにしている。

そんな感じで私は「毎日が育児休暇」なのである。

息子の日々の勉強

上で「算数、数学の勉強を見る」と書いたが、すなわち他の科目の勉強は滅多に見ない。

たまに、例えば国語で「こんな時は、こんな言い回しが良いのではないか」とか、そのようなことも教える時はあるが、月に一回あるか無いかである。

息子の日々の勉強は、学校の宿題をして、ベネッセの教材(全科目)をやって、公文(通信学習)の英語(これは今のところ簡単に10分間ほど)やって、そして私が見ている「数学の勉強」を30分ほどやっている。

ちなみに「数学の勉強」は、上で述べたクラブチームの活動で遅くなった日は無しであるので、最近は週に2~3日は「無し」である。

何故に「算数、数学」以外は教えないか?

算数、数学だけは「出来るだけ小さい頃から慣れ親しんだほうが良いのではないか」「一度分からなくなったら取り返すのは非常に難しいのではないか」というような思いがあり、小学校に上がる少し前から教え始めたので、その流れで現在もずっと教えている(と言うより近年は、「教える」ことは何もせずに、見ているだけの日も多い)。

それ以外の科目は、中学年、高学年になってくると難しくなってくるのだが、出来るだけ教えないようにしている。理由は単純で「自分で考えて、自分で解決する力」を身に付けて欲しい為である。

あと、何でもかんでも「お父さんに見られているプレッシャー」みたいな雰囲気の中で勉強を進めるのも違うように思っているので、敢えて見ないようにしている部分もある。

勉強以外も、例えばクラブチームでやっている「とある球技」に関しても、試合は出来るだけ見に行くのだが、結果が良かった時は褒めるが、悪くてもアレコレ言わないようにしている。自分に大した知識も無いのに、例えばインターネット等で調べて、そのような間に合わせの知識で息子にアレコレ言うなど、「絶対にやってはダメ」だと思っていて、これも「算数、数学の勉強以外に関しては、私のプレッシャーなど感じずに、伸び伸びとやって欲しい」という思いによるものである。

「算数、数学」を通じて息子に教えていること

息子は中学二年生までの範囲の数学は終わっており(その範囲の数学検定にも、ほぼ満点で合格している)、現在は中学三年生の範囲の数学の勉強をしている。

日々の「算数、数学の勉強」や、もしくは日常会話などで、息子には以下のように教えている。

「テストで点を取る為」ではなく、「賢くなる為」に勉強している

来年以降、中学生になってからの定期テストや、もしくは高校受験の際などは、「テストの点を取る」ことを目的とする必要のある場面は出てくるであろうし、そういった対策も必要となるだろう。

ただし、根本的な考え方としては「テストの点を取る為」では無くて、「賢くなる為」に勉強している。すなわち、日常生活の中で生じる問題、課題に対して、「勉強したこと」が活かされないと何の意味も無いと思うのである。(余談だが、サラリーマンをやっていた際に、数学を「実際の問題に当てはめて使う」といったことが出来ない人が非常に多く驚いた)。

以上を踏まえて、以下の通りとしてきた。

公式ややり方を丸覚えしない

まだ小学生なので、どうしても丸覚えとなってしまう部分もあるのだが(例えば球の体積の公式など)、基本的には「公式は教えない」という方針でやってきた。例えば「速度の公式」など、そのようなものは今まで一度も教えたことが無い。

また勝手に覚えてしまう分には仕方ないのだが、文章題だったら出来るだけ「やり方を丸覚えする」というようなことが無いように教えてきた。

概念の部分で理解出来ていれば、どれとどれを掛けるかとか、どれをどれで割るかと言ったことは、公式が無くても分かるし、掛かる時間も変わらない。

それで速度算でも、濃度算(食塩水)でも、割合(百分率)でも、普通に解けるような実力は身に付いている。

多少の間違いは気にしない

人間誰しも「単純ミス」はある。日々の勉強でそれをゼロとする為に時間と神経を費やすくらいなら、「しっかりと考えること」に時間を費やしたほうが良いと思うので、「単純ミス」に関しては出来るだけ指摘しないようにしてきた。

程度の問題でもあり、例えば100点満点の問題で、単純ミスだけで20点分もあるようだと指摘はしているが、そのようなことは滅多に無い話でもある。

逆に、1問、2問を単純ミスで間違えることは日常茶飯事なのだが、それに関しては細かく言わないようにしている。

なお、大切な試験などの際は、いわゆる見直しをやって間違いをゼロに近づける必要があることは伝えているし、今回取り上げた「全国学力テスト」や、近年受けた「数学検定」などでは満点に近い点を取ってくるので、本人も分かっているようである。

おわりに

そんな訳で、今回の「全国学力テスト」で、「良い点数を取ってきた」という感じで親としては単純に嬉しいのだが、より嬉しいのは、算数よりも国語が良い点だった部分かも知れない。

上で述べてきた通り、算数(数学)対して国語は、日々の勉強をほとんど見ていないし、そもそも時間的にも算数、数学ほど「人より余分」に勉強している訳ではないので、満点に近い点数を取ってきて少し驚いて、しかし現在の「思考力」さえあれば不思議なことでは無いとも思ったりして、そして嬉しかった訳である。

何より、本人が嬉しそうに語っていたので、その点が親として最も嬉しかった。